LUTEN京都五条が面している室町通や楊梅通は、車が1台通れる程度の細い通りです。
ところが、少し北へ行くと五条通は片側複数車線の非常に広い道路になっています。
なぜこれほど近い場所なのに、道路の幅に大きな差があるのでしょうか。
その理由をたどると、約80年前の戦時中に行き着きます。
太平洋戦争末期、日本各地の都市は米軍による空襲を受けていました。
京都も空襲の標的となる可能性が高いと考えられていましたが、結果的には京都で空襲があったのは西陣と東山区の東山七条周辺のごく一部のみ。
京都がこれほど空襲が少なかったのは理由があり、「京都は原爆の標的候補に入っていたから」という説があります。
原爆は広島と長崎に落とされましたが、原爆の標的候補に入っていた都市は実際に原爆を落とした際の威力を正確に測りたいがために、空襲はしないようにされていたと言われています。
京都も同じ原爆の標的候補であったため、意図的に空襲は避けられていたのかもしれませんが、京都でも他の都市と同様に空襲を受ける前提のもと防空対策が進められていました。
特に京都は昔ながらの木造2階建ての町家が多く、少しでも空襲で火災が発生すると隣の家だけでなく隣町、または京都市全体に火災が広がってしまうのは、過去の度重なる大火から学んできました。
実際に防空対策案として考えられていたのは清水焼の原料にもなっている土を土壁にする方法で、深草の陸軍拠点において土壁の効果実験を行ったところ、予想以上の好成績が得られました。
しかし、自治体の実費、出兵などによる人材不足、資材の高騰などでこの計画は思うように進まず、防空計画は計画だけ進むものの、実行には至らないことが計画がその他も多かったと言われています。
次第に敗戦の色が濃くなるにつれて、それまでは各個人や自治体の判断による自主的な防空対策だったものが、次第に法的に命令する強制的な防空対策へとなります。
「物資も労働力も少なくてすむ防空」が求められるようになった結果、建物密集地に空き地を設ける、建物を部分的に間引くことで防火と避難の両方に備える考えが出てきます。
それが「建物疎開」でした。
建物疎開は大縄を引っ張って大黒柱を引き倒すことにより屋根の重みで家を破壊、京都特有の狭い通りを強制的に広げるものでした。
1945年には五条通、御池通、堀川通、京都駅周辺で2万戸以上が破壊されたと言われています。
現在の五条通は建物疎開で広がった通りにさらに戦後の都市計画によって東山区と山科区、下京区を結ぶ国道1号線の主要交通軸となっています。
一方で、室町通や楊梅通のような生活道路は大規模な拡幅が行われなかったため、今でも京都らしい細い街路の姿を残しています。
つまり、このエリアに残る細い路地と広い五条通の対比は、戦時中の建物疎開と戦後の都市計画が生み出した歴史の痕跡ともいえます。
LUTEN京都五条に訪れた際には、今回紹介した歴史を感じながら歩いてみませんか?
参考
図説 京の町歴史 丸山俊明 著 住環境文化研究所
建物疎開と都市防空 川口朋子 著 京都大学学術出版会

