LUTEN京都五条の軒先には、水を入れるためのバケツが置かれています。
現代では消火器や消防車があるため、「なぜ今もバケツなのだろう」と不思議に思う方もいるかもしれません。
実はこのバケツには、京都が数百年にわたって火災と向き合ってきた歴史が関係しています。
火事は京都最大の脅威だった
京都は昔から木造建築が密集する都市です。
とりわけ町家が立ち並ぶ中心部では、一軒の火事が町全体を焼き尽くす危険があり実際に何度も大火が発生しています。
そのため京都の人々にとって、防火は日常生活の一部でした。
戦国時代の町家は今とは違った
戦国時代の京都では、現在のような細長い京町家はまだ一般的ではありませんでした。

町家は長屋のように四角く囲われた構造をしており、その中央には共同の井戸や便所が設けられていました。
共同井戸は生活用水だけでなく、消防用水としても利用できますし、中央に井戸と便所を設けることで空間を作り、万が一町家で火災が起こった際は火の延焼を防ぐ火除け地帯としても機能します。
そして火事が起こると、同じ長屋の住民や近隣の町人が協力して消火活動を行う体制がこの頃から明治期まで長く続くことになります。
豊臣秀吉の都市改造が京町家を生んだ
天下統一を果たした豊臣秀吉は京都の人口増加と経済発展を目指し、大規模な都市改造を行います。
その過程で長屋の中央にあった共同空間に新たな道路を整備することで、町家の数を増やします。

こうして生まれたのが、間口が狭く奥行きが長い「うなぎの寝床」と呼ばれる京町家です。
1階はお店としての機能を、2階は住居としての機能を持たすために2階建ての町家も急増しました。
しかしその一方で、かつて火除けや消防用水の役割を果たしていた空間が減少し、火災時の危険は高まることになります。
京都の消防は町人が担っていた
京都では古くから町人による自主的な消防活動が行われていましたが、1622年には京都所司代の板倉重宗が、「火事の際には水を持って出動すること」を命じています。
さらに1634年には、上京・下京の各町が桶を持参して出動する制度が整えられ、出動しなかった町には罰則も設けられました。
もっとも、実際には役人が到着する前から近隣住民が消火活動を始めていたなかで制度化されたのは、昔から続く町人消防を幕府が管理するようになったとも言えます。
京都を焼き尽くした天明の大火
1788年1月29日には京都三大大火とされる「天明の大火」が発生します。
現在でいう東山区宮川町の団栗橋近くの空き家から出火し、その飛び火が鴨川を越え、松原通あたりから一気に中京が焼けていきました。
もちろん町人は消火活動に徹しましたが、この日は暴風となっており、さまざまな方角から風によって炎が広がり、中京では火災旋風が発生し手のつけようがなかったとの記録があります。
御所も焼失しましたが、天皇や皇族は避難し無事でした。
京都の人々は改めて火災の恐ろしさを認識することになります。
明治時代に消防は近代化する
明治時代になると消防体制は徐々に近代化されます。
各学区の小学校には消防道具が配備され、火災監視や鐘や太鼓により火災発生を町内に伝えるための望火楼も設置されました。

やがて消防は警察や自治体が中心となる制度へ移行し、現在の消防署につながっていきます。
消防団は今も残っている
しかし、町人による消防の伝統が完全になくなったわけではありません。
その流れを受け継いでいるのが現在の消防団です。
消防団員は消防署とは別で各学区の地域住民によって構成され、災害時には消防署と協力して活動します。
LUTENの近辺では尚徳消防分団、稚松消防分団、植柳消防分団が地域防災を支えています。
軒先のバケツは歴史の名残
そして、LUTENの軒先に置かれたバケツ。
これは単なる飾りではありません。
京都では長い間、「火事はまず近所で消す」という意識が受け継がれてきました。
軒先の水桶やバケツは、その歴史を今に伝える防火文化の象徴とも言えます。
現代では消防設備が発達しましたが、京都の町並みの中には今も昔の防火意識の名残を見ることができます。
LUTENのバケツもまた、京都が火災と向き合い続けてきた歴史の一部なのです。


