LUTEN京都五条は築100年を超える京町家を改装して生まれました。
この度ご縁あって私たちが受け継ぐことになりましたが、かつての京町家はどのような人物が所有していたのか歴史が気になるところです。
実はこの京町家を所有していた田中家は、江戸時代よりこの地で町家大工を営んでおり、「近江屋吉兵衛」という屋号で活動していました。
田中家が所有していた膨大な史料には、田中家の先祖の続柄や町家大工としての出納表や契約関連書類、建築の設計図などがあり、近江屋吉兵衛の活動の軌跡を辿ることができます。
今回は近江屋吉兵衛のルーツや活動内容を田中家が所有していた史料から読み解き紹介していきます。
近江屋吉兵衛の主な活動年表と京都のできごと
| 西暦 | 京都の出来事 | 西暦 | 近江屋吉兵衛の活動記録 |
|---|---|---|---|
| 1644年 | 東寺五重塔の再建 | ||
| 1647年 | 野々村仁清が仁和寺門前にて御室焼を開窯 | ||
| 1651年 | 初祖「教円」生誕 | ||
| 1662年 | 近江・若狭地震により方広寺の大仏が倒壊 | ||
| 1674年 | 大黒町の家屋敷調査資料に「近江屋吉兵衛」の名前が記載 | ||
| 1687年 | 東山天皇即位 | ||
| 1688年 | 近江屋吉兵衛が大工として活動している初めての記録(光円寺居宅普請) | ||
| 1690年 | 桜宮神社本社仕様帳 | ||
| 1694年 | 応仁の乱以降中断していた葵祭が再興 | ||
| 1744年 | 円光院神明社天満宮普請願書 | ||
| 1750年 | 二条城天守閣が落雷により焼失 | ||
| 1787年 | 借屋借用証文和 | ||
| 1788年 | 天明の大火により御所、二条城、多くの鉾町にて山鉾を焼失 | ||
| 1799年 | 東本願寺光円寺普請願書 | ||
| 1829年 | 本圀寺出入大工取替証文 | ||
| 1831年 | 飯田新七により高島屋の前身である古着商が創業 | 1831年 | 本圀寺本妙院普請願書 |
| 1832年 | 本圀寺勧持院・法華寺普請願書 真如院普請手伝方見積覚案 | ||
| 1844年 | 本圀寺求法院講堂修復普請願書 | ||
| 1847年 | 本圀寺松陽院表門側面図 | ||
| 1858年 | 安政の大獄始まる。京都では梅田雲浜ら40数名が捕縛される | 1858年 | 西本願寺末寺光恩寺普請願書 |
| 1862年 | 寺田屋事件 | ||
| 1863年 | 悪王子町四条御旅町悪王子社普請願書 | ||
| 1864年 | 池田屋騒動、禁門の変 | 1864年 | 禁門の変で焼失した町家の再興に携わる |
| 1868年 | 神仏分離令 | ||
| 1872年 | 建仁寺の寺領の大半が上地 | ||
| 1874~1876年 | 祇園町南側の整備に携わる | ||
| 1877年 | 京都駅完成・京都-神戸間開通 |
田中家の祖先「教円」
田中家の資料によると田中家の初祖は法名を「教円」といい1730年に80歳で没したと記録されています。
1674年の大黒町の家屋敷を調査した資料に既に「近江屋吉兵衛」の記載があったことから、教円は20代前半には大黒町に家屋敷を所有していたことが分かりました。
教円はどこで生まれて、いつ京都にやって来たのかは分かっていませんが、後の家業の弟子らに近江(現在の滋賀県)出身者が多いこと、屋号の「近江屋吉兵衛」から出身は近江だと推測されます。
近江屋吉兵衛の主な仕事内容
近江屋吉兵衛に主にどのような取引先があったのかは工数帳や売上帳に残されています。
1800年代の資料では年間1~2戸の町家の新築、格子や物干、提灯立といった軽微な工作などを行っていたことが分かります。
町家以外にも神社・寺院の大規模な造営にも携わっていました。
以下に携わった主な建築物について紹介します。
東本願寺塔頭光円寺

近江屋吉兵衛の大工としての最も古い記録は1688年の光円寺居宅普請です。
光円寺は東本願寺の塔頭寺院で、かつてこの地で浄土真宗の祖、親鸞聖人が1262年に入滅された地の一つという説があります。

親鸞聖人は法然上人とともに「南無阿弥陀仏」という念仏の教えを多くの人に説いていたのですが、新興の宗派を排除したい既成の宗派からの圧力、後鳥羽上皇の命により越後に流刑となってしまいます。
その5年後に流刑が許されましたが、そのまま京都には戻らず関東に20年間滞在、京都に戻ってきたのは親鸞が60歳のときでした。
光円寺の地は親鸞が流刑になる前、そして京都に戻ってきたときの居宅があったとされています。
光円寺は1516年-1554年に現在の地に移され、近江屋吉兵衛としては1688年に寺の居宅の普請、その後1799年にも普請の記録が残されていますので、長年に渡って取引が行われる御用達のような間柄だったと考えられます。
天明の大火後に年間10棟の普請
1788年の天明の大火は1月30日に鴨川の東、団栗辻子の民家から出火し東からの強風により鴨川の西にまで飛び火。
北は鞍馬口、南は七条通、西は千本通までの範囲が焼け野原となった大火で、応仁の乱以来の京都では最大規模の火災となりました。
近江屋吉兵衛では従来は年間に2棟ほどの受注となっていた町家の業務が、天明の大火の後は年間10棟の受注と、住まいを焼失した多くの町家の復興に携わっていたことが分かります。
本圀寺の出入大工となる
1829年に本圀寺の出入に伴う契約関連の資料が初出し、以降は本圀寺関連の資料が頻繁に保存されています。
当時の工数帳から当時の仕事の30%程度は本圀寺が占めていることが分かりました。
本圀寺は現在は山科区にある日蓮宗京都八本山の寺院ですが、起源としては1253年に鎌倉に創建された御堂になります。
その後1345年に光厳天皇の勅願により鎌倉から京都の六条堀川楊梅に移転、最盛期には48もの塔頭を要する大寺院でした。
室町幕府第15代将軍の足利義昭が一時期仮の御所として使用していましたが、織田信長によって京から追放されてしまった三好三人衆(三好長逸、岩成友通、三好宗渭)の逆襲に合い本圀寺が襲撃される事件がありました。
これを「本圀寺の変」と言います。
先月放送された大河ドラマ「豊臣兄弟!」の3月22日の回では、この本圀寺の変がフォーカスされていましたね。
田中家の史料からは六条堀川楊梅の塔頭松陽院、勧持院、真如院など、本圀寺の多くの塔頭寺院の建築・修理に関する普請願書や設計図が見つかっています。
本圀寺は山科に移りましたが、一部の塔頭は元の六条堀川楊梅に現在も残っています。



悪王子社
悪王子社は素戔嗚尊の荒魂を祀る社で、現在は八坂神社の境内にあります。
実は最初から八坂神社に祀られていたのではなく、過去に何度も移転を繰り返していました。
下京区には「悪王子」という名が入った町名が複数存在するので、社が一時期存在していた土地だとわかります
田中家史料の中に1863年、悪王子町四条御旅町悪王子社普請願書があります。
悪王子町という町名は烏丸五条上るにあり、元悪王子町は四条烏丸下るにありますが、このどちらかの社の建築に関わっていたことは分かります。
もう一つのヒント、「四条御旅町」から推測すると四条烏丸下るの「元悪王子町」での社の建築に関わっていたとわかります。
四条御旅は現在の祇園祭で神輿が鎮座する四条寺町の御旅所のことではなく、素戔嗚尊を乗せた八神輿がかつて渡御していた大政所御旅所(烏丸仏光寺下る)のことを指していると考えられます。
烏丸仏光寺下るの大政所と元悪王子町の場所はほぼ隣町のレベルなので、元悪王子町にあった社の建築に関わっていた可能性が濃厚です。

元悪王子町の通りにはこ悪王子社跡の石碑が残っていますが、少し南側に平成10年に八坂神社の悪王子社からの分霊を祀る社が建設されています。


祇園町南側

現在は舞妓さんが住む街として知られる祇園町南側のお茶屋街ですが、もともとはこの地は臨済宗最古の寺院で京都五山の第三位である建仁寺の寺領でした。
しかし明治期の廃仏毀釈により当時広大な寺領を有していた建仁寺も大半の寺領を没収されることになり、その空いた土地に祇園花街の一角としてお茶屋や民家が次々と建てられた経緯があります。
近江屋吉兵衛は明治の初期から屋号を田中吉兵衛に変えて活動するようになり、祇園町南側の建築に関わるようになりました。
これまではいわゆる洛中での仕事をしてきたのですがこの時期から急に鴨東の祇園での仕事を担うようになったのか、それは田中家に嫁入りした人物が、祇園町南側の区長も担い、現在でも有名なお茶屋「一力亭」の杉浦家出身であったことが大きく影響していたと考えられます。
田中家資料の閲覧について

本記事における田中家資料について、資料の複写版を京都市歴史資料館にて無料で閲覧可能です。
歴史資料館2Fの受付カウンターにて下記の情報をお伝えください。(事前申請の必要なし)
文書番号:sm34 田中(吉)家文書
| 住所 | 京都市上京区寺町通荒神口下る松蔭町138-1 |
| HP | http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000003963.html |
| 営業時間 | 9:00~17:00 |
参考文献
- 京都市歴史資料館所蔵古文書 sm34 田中(吉)家文書
- 思文閣出版 近世京都の町・町家・町家大工 日向進著


